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札幌高等裁判所 昭和45年(う)56号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

〈前略〉

論旨は、原判決は「被告人は、昭和四四年七月二八日午後一一時一〇分ころから翌二九日午前零時ころまでの間、旭川市四条通六丁目右五号居酒屋スナック『かじか』こと花房アイコ方において、代金支払の意思及び能力がないのにこれあるように装つて、同女(当四六年)及びホステス片岡敬子(当一九年)等に対し「じやんじやんビールを持つて来い。たくさん持つて来なければ払わない」等と申し向けて酒肴等を注文し、同人等をして被告人が相当金銭を所持していて即時代金を支払つてくれるものと誤信させ、よつて注文に応じて同女等から価格二、五六〇円相当の飲食物及び煙草を提供させてこれを騙取したものである。」との公訴事実に対し、これにそう検察官申請の各証人の証言はいずれもその信用性に疑いをさしはさむ余地があり、一方被告人が「かじか」で注文したのはビール一本のみであり、当時五〇〇円ないし七〇〇円程度の現金を持つていたという被告人の弁解が真実でないとは認定しきれないものがあり、その結果、「本件については、被告人が弁解するように、被告人が『かじか』で注文したのはビール一本のみであり、当時被告人はその代金を支払う程度の現金を持つていた可能性を否定しがたいのであつて、本件公訴事実について結局犯罪の証明がないことに帰する。」として無罪を言い渡したが、右証拠の価値判断を誤つて事実を誤認したものであり、その誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

よつて審按するに、原判決が本件公訴事実につき、所論の指摘するような理由により、被告人に無罪の言渡をしたことは、記録上明らかである。ところで、本件においては、原判決がその供述の信用性に重大な疑問をさしはさんだ検察側の主要な証人(前記「かじか」の女主人花房アイコのほか、花房邦比古、鈴木良子、片岡敬子、斎藤敦子ら)が、いずれもその後所在不明となり、当審においてその供述の信用性を直接吟味することが不可能になるという異例の事態となり、その結果、当審においては、被告人質問をしたほか、被告人の前科の内容を立証すべき書証(いずれも判決謄本)五通の取調をしたのみで、それ以上、実質上意味のある事実調が事実上不可能となつたのであつて、原判決の事実認定に、かりに所論の指摘するような多少の疑問があつたとしても、原判決を破棄することが法律上許されないのではないかとの疑問が存するので、まず、この点について検討する。

1  当審における事実取調の経過

当審における本件の審理の経過はつぎのとおりである。すなわち、(1)昭和四五年五月二八日(以下の月日は年号を記載したものを除き同年の記載を略す)第一回公判期日において、検察官は、被告人の前科内容が本件と同種事案である事実を立証するため判決謄本五通の取調請求をし、右書証は、弁護人の同意を得てただちに取り調べられたが、他に何らの立証の申請をしなかつたので、当裁判所は本件被害状況を明らかにするため、職権により、花房アイコを次回公判期日(六月二三日午後一時)に証人として取り調べる旨決定した。(2)しかるに、同証人に対する召喚状が「あて所に尋ねあたらない」との理由で不送達となつたので、当裁判所は検察官に対し、同証人の所在調査方を依頼したところ、検察官から同月一七日に「証人は四四年一一月ころ家出し、札幌市薄野(以下不詳)かめや居酒屋で稼働しているとの噂により、同所近辺を調査したが、稼働先ならびに本人の所在を確認できない」との回答があつた。(3)第二回公判期日において、検察官から、被告人の犯行時における状況等を明らかにするため、証人花房邦比古の申請があつたので、当裁判所は、これを採用し、次回公判期日(八月一三日午後一時)に証人として取り調べる旨決定し、右証人召喚状は、六月二六日同証人に送達された。(4)ところが、同証人は、第三回公判期日直前になつて、「当日は店舗の開店に付準備の都合上出頭できない」旨の不参届を提出、同公判期日に出頭しなかつたので、右期日は職権により九月二二日午後一時と変更された。(5)同証人に対する第四回公判期日の証人召喚状は、八月一五日配達の不在のため送達できず、「不在通知書差入済」のため同月二六日まで郵便局に保管されたが、留置期間経過のため結局差出人(当裁判所)に返戻された。その後、右召喚状は、再度同証人に発送されたが、九月七日に至り、「転居先不明で配達できない」との理由で不送達となつた。(6)第四回公判期日において、検察官は、同証人の申請を撤回し、新たに、被告人質問のため公判期日の続行を求めたので、当裁判所は、同証人の採用を取り消したうえ、次回公判期日(一〇月六日午後一時)に、被告人質問を行なうべく、被告人に対する出頭命令を発した。(7)第五回公判期日において、検察官および当裁判所により、「かじか」における飲酒状況、その際の所持金の額等につき、相当詳細な被告人質問が行なわれ、被告人は、原審公廷におけるとほぼ同趣旨の弁解を繰り返した。(8)当裁判所は、右公判期日において、前記証人花房アイコの採用を取り消し、弁護人の弁論を聴取して、いつたん弁論を終結したが、その後職権により、さきに終結した弁論を再開したうえ、一〇月一日に「証人斎藤敦子、同片岡敬子、同鈴木良子の三名(いずれも本件当時前記「かじか」で被告人と同席した者)を証人として採用し次回公判期日(一〇月二七日午前九時三〇分)に召喚して尋問する」旨の期日外の決定をした。(9)右三名のうち、片岡敬子、同鈴木良子の両名に対する証人召喚状は、いずれも「転居先不明」または「あて所に尋ねあたらない」との理由で不送達となつたので、当裁判所は、ただちに検察官に対し、その所在調査方を依頼したが、同月一五日に至り、検察官から、調査の結果、いずれもその所在が不明であつた旨の回答を得た。(10)証人斎藤敦子は、第六回公判期日の開廷直前に当庁書記官忠鉢成一に対し、電話をもつて「昨夜より子供が風邪発熱のため、本日の公判期日に出頭できない。現住所は、旭川市曙町一条六丁目清風荘内である」旨連絡した。右公判期日は、同証人不出頭のため一一月一九日午後一時と変更された。(11)同証人に対する第七回公判期日の証人召喚状は、さきに電話連絡を受けた現住所あてに発送されたが「あて所に尋ねあたらない」との理由で不送達となり、さきに当裁判所の所在調査の依頼に対し、検察官から一一月一四日に「証人は、前記住居に、吉田名義で居住するも、現在旅行中で行先不明。なお管理人および近隣の話によれば、同人はほとんど在宅しないとのことであり、稼働先も不明」との回答があつた。第七回公判期日は、証人再召喚のため、一二月八日午前一一時と変更された。(12)第八回公判期日の同証人に対する証人召喚状は「転居先不明」との理由で不送達となつたので、検察官は、一一月三〇日に到り、被告人の本件犯行前後の状況を明らかにするため、新たに、小野道一、同高畠敏夫の両名を証人として申請した。(13)第八回公判期日において、検察官は、「右両名は、いずれも本日当公判廷に在廷することを確約していたのに、出頭しないものである」旨釈明し、右両名につき旭川市において、裁判所外における証人尋問を実施することを希望する」旨の意見を表明した。当裁判所は、右両名の証人申請を却下し、さきに決定した証人斎藤敦子、同片岡敬子、同鈴木良子の採用を取り消す旨の決定をして弁論を終結した。

以上のとおり、本件につき当審においてなしえた事実調は、結局被告人質問のほか、被告人の前科の内容を立証すべき判決謄本五通のみであつて、本件の主要な争点である被告人の前記「かじか」における飲酒状況等に関し、「かじか」の関係者から、その供述を直接聴取してその信用性を吟味する機会はついに得られなかつたものである。(なお、当裁判所が、第八回公判期日における検察官の証人申請を却下した理由は、一件記録によれば申請にかかる小野、高畠の両名が「かじか」に赴いた時刻は、すでに被告人の飲酒の終りに近い段階であり、両名とも、「かじか」の関係者の供述するような被告人がビールを注文する際の具体的行動を目撃しているものでないこと、右両名を尋問すれば、本件の争点の一つである被告人の当時の所持金の額につき、被告人の「警察へ突き出されるとき、店の者にポケットを探られて所持金を奪われてしまつた」との弁解の真否を検討することが一応は可能であるが、後記のとおり、被告人が、右所持金を失つた理由につき、右とは別個の弁解もしており、前記両名を尋問しても、右弁解の全てについてまではその真否を確認することができないこと、さらに前記のような当審における本件関係人の協力態度の経緯にかんがみると、右両名が、今後さらに、所在不明などで尋問が不能となるおそれも十分考えられるのでこのような証人の取調の結果を期待し、これ以上審理を続行して訴訟を遅延させることは、被告人の人権保障上も問題であること、等であつた。)

2  本件における主要争点と原判決破棄の可否

本件においては、原審において、すでに詳細な被告人の弁解の聴取と必要な関係証人の十分な尋問が行なわれていて、その審理に欠けるところは全くないばかりでなく、原審において取調べた主要な証人は、その後、前記の如くいずれも所在不明となつて、今後これを発見して取調べることは、事実上不可能なこととなつている。このように、すでに十分な審理が尽されていて、ただ証拠の価値判断の当否のみが問題となる本件のような事案においては、更に審理を続行しても、原判決当時に比べ新たな証拠の発見される余地はきわめて乏しいのであるから、かりに当裁判所において原判決の判断に多少の疑問を持つたとしても、これを原審に差し戻して更に審理を尽くさせることは、実質的にみて意味のないことであり、したがつて、当裁判所としては、記録ならびに当審事実調の結果を総合考察し、原判決の当否を審査し、本件控訴を棄却するか、または、原判決を破棄して自判するかの二者択一を迫られることとなる。

ところで、本件のように、原判決が起訴にかかる公訴事実を認めるに足る証明がないとして、被告人に対し無罪を言い渡した場合に、控訴裁判所が、事実誤認を理由に原判決を破棄したうえ、ただちに被告事件について犯罪事実の存在を確定し有罪の判決をするには、事件の核心をなす部分につき、事実の取調をする必要があると解する(最判昭和三四年五月二二日刑集一三巻五号七七三頁参照)。そして、右にいう「事件の核心をなす」部分についての事実の取調として、いかなる証拠調が必要でおるかは、必ずしも一概に決することができず個々の事実の罪質・態様・争点の所在等に応じて合理的に決するほかはないのであるが、右判例がかかる場合に事実調を必要とした趣旨を実質的に理解すれば、右は、一審の無罪判決を破棄して被告人に有罪の言渡をするためには、原判決の事実認定が、明白な経験則違反をなし不合理である場合を除き、たんに当該事案の主要な争点に関し、形式的に何らかの事実調をしたというだけでは足りず、少くとも、右争点に関する主要な証拠方法につき実質的かつ適切な証拠調を行ない、原裁判所が疑問とした証拠の証明力につき、直接これを検討したうえでなければならない、とする趣旨を含むものと解される。したがつて、控訴審裁判所が、原判決のした証拠の価値判断に、多少の疑問を持つたとしても、もし被告人の責に帰すべからざる事由により、右の「核心をなす部分」に属する主要な証拠を取り調べることが事実上全く不可能となつたような場合には、結局、直接主義の要請に一歩を譲り、控訴を棄却するほかないこともあり得るのである。

ところで、本件につきこれを見るに、原審以来の争点は、被告人が「かじか」においてビールを注文し、これを飲んだ際の具体的言動および被告人が入店の際ビール一本に相当する金員を所持していたかどうかの二点である、すなわち、関係証拠によれば、被告人が、ほぼ公訴事実記載の日時ころ(ただし時刻については争いがある)、公訴事実記載の居酒屋スナック「かじか」において、ビールを注文して飲んだこと、その後被告人は前記花房アイコらから飲食代金等として合計二、五六〇円を請求されたが、その支払に応じなかつたため、同店関係者らによつて無銭飲食の現行犯人として警察に突き出されたこと、警察における取調を受けた際、被告人は、現金四一円しか所持していなかつたこと、等の事実が明らかであるところ、被告人は、捜査当時より、ほぼ一貫して「自分が注文して飲んだのはビール一本だけであり、他は店のアダムや女達が勝手に飲んでしまつたものである」旨弁疏し、また、その所持金についても、「当時五〇〇円ないし七〇〇円の金を持つていた」旨主張しているのであつて(ただし、逮捕当時その所持金を持つていなかつた原因については、司法警察員および検察官の取調の際には警察へ突き出される際、マダムらにポケットを探られて取られてしまつた」としていたが、その後原審公判廷においては、「店の女の子にハイライトを買つてくれと五〇〇円札を渡したら、『チップにもらつておく』とか『あとで精算する』とかいつておつりを返してくれなかつた」という新たな弁解を加えている。)以上の二点において、公訴事実の存在を全面的に肯定する「かじか」の関係者(花房アイコ、同邦比古、鈴木良子、片岡敬子)および一部被告人の弁解の趣旨に副う供述をしているが結局一〇本のビール等はすべて被告人の注文によつて出されたものである旨公訴事実の存在を肯定する斎藤敦子の原審公判廷における各供述と顕著な対立を示しているのである。そして、原判決は、右各争点につき、いずれも、積極、消極の各証拠を仔細に分析し、かつこれを比較検討した結果、被告人の弁解中にいくつかの矛盾ないし不合理の存することを認めつつも、結局において、これを合理的に排斥することは困難であるとし、被告人に無罪を言い渡した。所論は、原判決の右判断の不当を指摘しるる主張するが、その趣旨は帰するところ、原判決が排斥した前記花房アイコらのこの点に関する供述の合理性、被告人の前記弁解の不合理性を指摘するにある。

したがつて、当裁判所において、もし原判決を破棄して被告人に有罪の言渡しをしようとすれば、前述の趣旨に鑑み、右の争点とくに被告人の飲酒の際の具体的状況に関し、原判決がその信用性に重大な疑問を抱いた「かじか」の開係者のうち、少くともいずれか一名を直接取り調べて、その供述の信用性を吟味する必要があると解するのが相当であり、本件におけるように、捜査当時以来ほぼ一貫して公訴事実を否認している被告人に対し重ねて被告人質問を行ない、前記のような書証五通の取調を経たという程度の事実調により(なお、被告人が詐欺罪で再々処罰されたことのある事実は、原審において取り調べた証拠によつて、すでに明らかであつたのであり、右書証によつても被告人が従前の公判において、公訴事実をことさら否認していた等、本件における被告人の供述の合理性を疑わせる新たな事実は認められない。)、原判決を破棄することは、原判決の認定が明白な経験則に違反し、著しく不合理な場合以外は許されないと解する。そして、すでに述べたとおり、この点に関する主要な証人がすべて所在不明となり、その再度の取調が被告人の責に帰すべからざる事由により事実上不可能となつた本件においては、所論指摘の個々の論点の詳細な検討に入るまでもなく(なお、所論の指摘にも拘らず、原判決の認定が、右に述べた意味において著しく不合理であるとは、とうてい認められない。)、本件控訴は、結局これを棄却するほかないものである。論旨は理由がない。(ちなみに、最判昭和三五年五月一日刑集一二巻七号一二四三頁は、いわゆる無銭飲食の事案に関し、被告人質問のみの事実取調で一審の無罪判決を破棄し、被告人に有罪の言渡をした原判決を是認したものであるが、一審判決自体、被告人の詐欺の犯意を除くその余の客観的事実はすべて認めている事案であり、被告人の犯意の存否のみが唯一の争点と認められる場合であるから、飲食の際の被告人の具体的行動等外形的事実自体が主たる争点である本件とは明らかに事案を異にすると認められる。)

よつて、刑事訴訟法第三九六条により本件控訴を棄却することとし主文のとおり判決する。(中西孝 小川正澄 木谷明)

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